ゆがみ
悪いものは悪い、正しいものは正しいと、単純に判断してそれに伴う行動ができたら世の中はもっと穏やかなのではないかと思う。
悪いものは悪い、正しいものは正しいと判断するのは当たり前のことなのに、何故当たり前のことが当たり前に出来ないのだろう。
価格に値しない耐震偽造の建築物を買ってしまったら、それはすぐにでも払い戻されるべきでしょう?
単純に考えれば当たり前のことなのに、それがすぐに出来ないのは何故?
価格に値しない買い物をさせられて、尚且つそのローンを払い続けなければいけないのは何故?
他国の人を拉致するなんてとんでもなく間違っている。
すぐにでも帰すべきでしょう?
それが出来ないのは何故?
物事の善悪の判断は個人差があって、常識といわれることにも多少の個人差があって、自分の中の常識が必ずしも他の全員の常識とは一致しないことはあると思う。
例えば「椅子は座るためのもの。その上に立って応援するものではない」。これは私の中の常識。
だけど「なんで椅子の上に立ったらいけないの?盛り上がってるんだし、みんな立ってるし別にいいじゃん」と考える人もいる。
自分の常識で悪いことだと判断したことが、人によっては悪いことではなくなるのだ。
こんなふうな個人レベルの常識のズレは他にも多々あると思う。
でも最近は、そのズレが個人レベルではなく社会レベルになっているのではないかと感じる。
そして更によくないのは、多くの人が「悪いこと」だとわかっているのに、なんの対処もできないという状況。
買った値段の価値がない買い物をしたら、その金額は払い戻されて当たり前。
他の国の人間を拉致なんてしないのが当たり前。
当たり前のことが当たり前に行われない。
ゆがんでいると思う。
ゆがみの中で苦しむ人たちがいる。
当たり前のことを当たり前に行うのは、そんなに難しいことなのだろうか。
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