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「三度目の殺人」

映画「三度目の殺人」を観た。

原案・脚本・編集・監督/是枝裕和
キャスト/福山雅治、役所広司、広瀬すず、斉藤由貴、吉田鋼太郎、満島真之介、松岡依都美、市川実日子、橋爪功

*****あらすじ*****

河原で鈍器で殴られ、ガソリンで焼かれるという殺人事件が起きた。
被害者は食品会社の社長、容疑者はその会社を解雇された元従業員、三隅高司(役所広司)。

逮捕された三隅は容疑を認め、動機は金銭目的だったという。

三隅には30年前に強盗殺人の前科があったため、死刑は確実と思われた。

その弁護をすることになったのが、弁護士の重盛(福山雅治)。
重盛は無期懲役にできるように調査を進めていくが、状況が二転三転し、隠されていたことが明らかになるにつれ、本当に三隅が犯人なのかもわからなくなっていく——


*****この先、ネタバレ注意*****

映画を観ていると、当然ながら真犯人は誰なのか、本当に三隅が犯人なのかという疑問が沸いてくる。

しかし観終えて思うのは、真実はわからないし、それが重要なことではないのではないか、ということ。

それよりも深いテーマが、この映画にはあるように感じた。

またタイトルでもある「三度目の殺人」の”三度”の意味。一度目が30年前の強盗殺人、二度目が今回の事件、ではあと一度は?という疑問が沸く。

まずは映画を観て沸いた、さまざまな疑問について。

①30年前の事件の裁判官であった重盛の父親(橋爪功)が、
「人を殺せる人間と殺せない人間には大きな差がある」
と言う。
確かに、人を殺すことに罪の意識を持たない脳の持ち主もいるだろう。
確かに、殺意を抱くほどのことが起こっても、それを実行に移す人は少ないだろう。

でも。
と私は思ってしまった。

でも、本当にそんなふうに言い切れる? 本当に? 本当に?
人は追い詰められた時、思いもよらなかった行動をしてしまうことってない?
それが殺人という、究極なことであったとしても。

決して殺人を擁護するということではなくて、それくらい言い切れることなんてないと思うのだ。

②三隅と被害者の娘、咲江(広瀬すず)は頻繁に会っていた。咲江は父親から性的暴行を受けていて、それを三隅には打ち明けていたのだという。 
同年代の友だちがいない様子の咲江は三隅のアパートを訪れ、よく笑っていたという証言もある。
何故、二人はそこまで打ち解けあっていたのか。

咲江に性的暴行を与えていた父親を裁くための三隅による殺人という解釈、
殺人を供述していた三隅が一転して「殺していない」と言い出したのは、三隅を救うため法廷で性的暴行を受けていたことを証言するという咲江を三隅がかばったのではないか、という解釈は筋が通っているし、気持ちよく納得できる。

しかし「性的暴行を受けていた」ということすら、疑い始めると真実なのかどうかわからなくなる。
周りの人間によると、咲江が足を引きずるように歩いているのは「生まれつき足が悪い」ということだが、咲江は「子供のころに屋根から落ちた」と言っている。

これが咲江の虚言癖によるものかはわかりませんが、もしも咲江に虚言癖があったり、思い込みが激しい性格であるのであれば、「性的暴行を受けていた」ことすら、真実なのかわからない。なぜなら、それを証言しているのは、咲江本人だけだから。

二人が打ち解けあっていた理由は、三隅は咲江に自分の娘を投影し、咲江は三隅に父親像を感じていたなど、解釈しようと思えばできるのですが。

③性的暴行を受けていたと打ち明けられて、憤りを感じるのは理解できるが、だからといって殺人につながってしまうものなのか?

④30年前の事件は、本当に三隅が犯人だったのか。

などなど、観ていると、何ひとつ明確な真実がないように感じられる。

極端な解釈をすれば、30年前の事件の真犯人も三隅ではなく、咲江の「性的暴行を受けていた」というのも三隅の気を引くための嘘だった。友だちがいない咲江は、たまたま接する機会があった三隅の気を引きたかった。三隅は自暴自棄になっていた。特別な理由もなく、もしくは三隅の人間性を試すため、咲江は自分の父親殺害へと三隅を導いていった……、と考えると、本当に薄気味悪い話になってしまう。

または三隅の単独犯行ではなく、咲江も共犯だった説。父親を河原に呼び出したのは咲江で、犯行は二人で犯したものである……。

いや、実は真犯人は全く別の人物である説。

と、まあ、考えると本当にわからなくなる。

しかし上でも書きましたが、真犯人は誰かということは、この映画において重要ではない気がしている。この映画では「火」が象徴的に使われている。河原で被害者がガソリンをかけられ燃やされる火で、スクリーンがいっぱいになるシーンが、映画の初めに出てくる。

「火」を使えるようになり、人類は急速に進化した。
また、作品中には十字架も何度か出てきますが、「火」による裁き(処刑)は、キリスト教では最も過酷なものであり、浄化の意味もあるのだそうだ。

30年前の事件のときにも、火が使われた。

三隅の父親は三隅が高校生のころ、自宅の火事で亡くなっている。

タイトルの「三度目の殺人」の残りの一度は、三隅の父親の件も、三隅の放火によるものだという解釈もできるし、最後には三隅本人が死刑という形で裁かれることになったことを指すとも解釈ができる。

「火」を使えるようになった人類は進化し、宗教を持ち、簡単には解釈できない複雑な感情を持つようになった。

死刑判決が下った後、重盛に「咲江をかばうために供述を翻したのではないか」と聞かれた三隅は言う。
「私はずっと、生まれてこなければよかった、と思ってました。でも、もし、重盛さんが話したことが本当なら、こんな私でも役に立つことができる」

少なくとも二度は殺人を犯してきた人間が、とても人間的なことを言う。
誰かの役に立てることで、否定されていた自分の存在が肯定されたと感じることはある、確かにある。
少なくとも二度の殺人犯でありながら、自分で、または周りから自分の存在を否定され傷ついてきたのだろうか。

そうだとしたら、人間とは、とても哀しい。

と感じる一方で、そんな想いすら否定される。
何故なら、その言葉すらも真実なのかわからないからだ。

現に殺人は起きていて、犯人は必ずいるのだが、この映画において重要なのは犯人が誰なのかということではないのだろう。

つかんだと思った確かなものだって、するりと離れていってしまうこともある。

つまり、確かな真実なんて何もないのだということが、真実なのではないだろうか。

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