思うこと

こんなとき、どうする?

何年か前のこと。

知り合い同士の集まりで、一人が言い出した。
「こんな時、どうする?」

「道を歩いていたら、すれ違ったおじさんに声をかけられたの。
汗だくで、疲れ切った様子だった。
田舎から出てきて一日中仕事を探していたんだけど、見つからなかった。
朝から何も食べていない。どうかご飯を食べるお金を貸してくれないだろうか、って。
こんな時、みんなならどうする?」

私とそこにいたもう一人は言った。
「貸すわけないじゃない。交番の場所を教えてあげる。おまわりさんに何とかしてもらうようにって」

その知り合いは貸したのだと言う。
「1000円だけ。それだけあれば、とりあえずお腹いっぱいになれるだろうって思ったから。
おじさん、住所と名前を書いてくれたけど、お金は返ってこないと思ってる。それでもいいの」

その場にいたもう一人が言った。
「自分も貸すかも」

「そんな姿見たら、貸すと思う。少しのお金で助けることができるなら貸すよ」

その話はそんな感じで終わった。

お人よしだなあ。見ず知らずの人にお金を貸すわけないよ、
と私は思っていた。


でも、その後、その話を思い出すたび、考えてしまうのだ。

お金を貸したのは、知り合いがお人よしだから?
返ってこなくてもいいと思いながら、相手にお金を差し出すことはおかしいこと?
自分だったら、絶対、そんなことするわけない?

……むしろ、助けようという気も起こらず、
迷わず交番に行くようにと促すことの方が、人間として寂しいことなのではないだろうか?


先日、同僚にこの話をしたら、
「それで、そのお金は返ってきたの?」
と聞かれた。

うーん、返ってこなかったと思うけど、そういうことじゃないんだ。

「1日くらい食べなくたって死ぬわけじゃないよ」

そうかもしれないけど、そういうことじゃないんだ。

「たかが1000円って思うかもしれないけれど、1000円稼ぐのだって大変なことなんだよ」

わかってる。

「お腹がすいてるっていうなら、お金じゃなくて、コンビニでおにぎりでも買ってあげたらよかったと思う」

うん、それもアリだったと思うけど、そういうことじゃないんだ。


私自身は、お金のトラブルは大嫌いで、慎ましく分相応の生活をしているつもりだけど、
考えてしまうのは、
1000円の価値とか、
そのおじさんが言ったことが本当なのかとか、
お金が返ってきたかどうかということじゃない。

心の問題。
お腹をすかせて疲れ切った様子の人を見て、
自分にとって返ってこなくてもいいと思えるくらいのお金を出すことを
即座にあり得ないー、って否定してしまう自分の心ってどうなんだろうって。

その心は間違ってない?
その感じ方は正しいの?
もちろん少額だって、出すのか出さないのかは、時と場合によるとは思うけれど。

| | Comments (2) | TrackBack (0)
|

言葉

取り返しのつかない3つのもの。
「放たれた矢」「過ぎ去った時間」
そして、
「語られた言葉」

子供の頃、読んだ漫画に書かれていた台詞。

言葉は生き物。

いい言葉は心の中で輝き続けて、その人の人生を支える。

でも言葉は凶器にもなる。
ずっと癒えない傷をつけてしまうこともある。

言葉の大切さをわかっているから、
気を付けるようにしている。

気を付けていても、思いがけない受け取り方をされてしまうこともあるのに、
感情的になってひどい言葉をぶつけ、相手を攻撃する気持ちが理解できない。

言葉を受け止めるのは人間なのに。
心を持っているのに。

言葉をぶつけられた瞬間から、
心の傷を抱えて、
ずっと生きていかなくちゃならなくなるかもしれないのに。

| | Comments (6) | TrackBack (0)
|

「受けとめる」歩んでいく日々のために。

否定からは何の肯定も生まれてこない。
肯定的になるために。


理不尽な状況に置かれていると感じてしまう場合。

まずは考える。
自分に非があり改めるべき点があるのであれば、改めるようにしていく。

次にオープンマインド。
ひとりで抱え込まず、(信頼できる人に)「自分は悩んでいる」と伝えてみる。

それでも事態は堂々巡り、解決しない場合。

どうしてこんな状況になってしまったのか理解できない場合は、ただその状況を受けとめる。ひたすら静かな心で。

「なんで?」「どうして?」と心に問い続けることは、
自分を責めることにつながったり、
周りの人たちを責めてしまうことにつながったりと、
結果的に心を負の方向に追い詰めてしまう。

無意味な体験などないはずで、
負の感情に支配されずその事柄の意味に気付くために、
まずは、ただ受けとめる、静かな心で。


人間関係において理不尽な状況に置かれていると感じている場合。

自分に非があり改めるべき点があるのであれば、改めるようにしていく。

また相手を変えることは難しくても、自分の相手に対する対応を変えていくことはできる。
自分の常識が相手の常識とは一致しないこともある。
自分が変われば相手も変わる。

できれば相手の中に共感できる部分を見つけて、その部分で折り合っていく。
それなりの距離感を保つ。

どうしても理解しあえなければ、理解しあえない部分で向き合っていても否定的な感情しか生まれてこないので、
そして理解できない部分から争いを生み出す必要もないので、
ただ静かな心で、置かれている状況を受けとめる。

相手の理不尽な言動は相手の事情であり、自分の事情ではない。

理不尽な状況を受けとめることで、神経がすり減ってしまうかもしれない。
しかし、すり減っているのは、過剰なプライドであったり過剰な自己防衛であったりという不要なものかもしれない。失ってもいいものかもしれない。

無理に納得しようとする必要はない。
無理に前向きになろうとする必要はない。

とりあえず、ただ受けとめる。

すると、自然に答えが見えてくる。どうするべきか、どう考えていくべきか、歩んでいく道も見えてくる。

自然に問題が解決している場合もあるだろうし、
実は問題でもなかったと気付くこともあるだろうし、
やはり対処しなければならない問題ならば、その対処方法が、
負の感情に支配されない対処方法が見えてくる。

そのために、
否定的ではなく肯定的になるために、
とりあえず、ただ受けとめる、静かな心で。

| | Comments (0) | TrackBack (0)
|

『出来る事と出来ない事はない。説明するが、完璧な姿を求めるな』

先日、有休をとって朝寝坊をしていた時のこと。

何度か目覚めかけては、
「まだ眠い~、まだ眠れる~」
と再び眠るを繰り返していた。

その目覚めと無意識の間にいた時、
夢を見ているようなイメージが浮かんだ。

女性のような存在が、アドバイスされていた。

女性は私とは別のように思えたけれど、そのアドバイスは私にも言われているように感じた。
アドバイスはまるで”天の声”のようなイメージ。

とても大切なアドバイスのような気がして、
「このまま眠ったら、忘れてしまう~」
と必死に起きて、メモを取った。

その言葉が、タイトルにもした、
『出来る事と出来ない事はない。説明するが、完璧な姿を求めるな』


ひとつめの言葉の後に、『説明するが』と続くところが、とてもツボ。
これだけじゃわかりにくいかなと思い、わかりやすく加えてくれたのかなと。


私は自分が悩むことのすべての答えは、自分の中にあると思っている。

なのに、どうしたらいいのかわからなくなってしまうのは、
日常生活を送る中での様々な雑念に邪魔をされて、
その答えが見えなくなってしまうからだ。

後から思ったことだけれど、
もしかしたらこの時私は、自分の潜在意識とコンタクトを取っていたのかもしれない。

ほら、潜在意識って顕在意識よりもずっとずっとずーっと大きいというではないですか、自分でわからないだけで。
潜在意識が知っている答えに、普段の自分は全く気付けていないということなのかもしれない。


『出来る事と出来ない事はない』
というのは、
私たちは物事を、出来る事、出来ない事、と分類しがちだけれど、
その考え方は間違っているよ、ということかなと思った。

『完璧な姿を求めるな』
は、そもそも”出来る事””出来ない事”という考え方が間違いならば、
出来ない事をクリアして完璧になろうなんていう考え方も間違っている、
ということかなと思った。

うーん、
でもこの解釈については自信がない。
もっと他の意味のような気がする。
(後日、思いついた別解釈!
「一人の人間はそもそも完璧になる必要なんてない。
それぞれが無いものを補い合い、支え合っていくのが自然な形なのだから」)


私は夢と現実の間のような感覚をキープしつつ、
浮かんだ疑問を投げかけてみた。
今なら、その答えもわかるのではないかと。

「でも、出来ない事を出来るようになりたいと思う気持ちが向上心を生むんですよね。
出来ないのに、開き直って出来るようになる努力もしないのがいいとは思えないんですが」

返ってきた答えは、
『出来ない事を出来るようになるよう取り組むのは良いこと。しかし、出来ないということにとらわれるな』

なるほどー。

出来るようになりたいと、取り組んでも、
現実は思ったようにはいかなくて、
出来るようになんて中々ならなくて、
落ち込んでしまうのはよくあること。

つまり出来るようになりたいとそのことに取り組むのは良いけれど、
思った通りにならないといって落ち込んだりするのは違うよってことかー。

あ、それに、そうか。
「(今は出来ないけど)出来たらいいな」
と出来るよう取り組んでいることは”出来るようになりたいこと”
「(出来ないけれど)興味ないから出来ないままでもいい」
のは、”興味のないこと”

要するに、「出来ない事」っていうのはなくて、
”出来るようになりたいこと”と、”出来なくてもいいこと”
があるだけなんだ。


更に続いたアドバイス。
『真剣に取り組めば取り組むほど、それは苦しみの種にもなっていく。
しかし本来そのことが自分にもたらしてくれた、それを好きだという、それがやりたいという心(魂)の輝きを忘れるな』

ほー!ほー!
なるほど、なるほどおおおおおおーーー。

確かに、はじめは楽しい気持ちでいたものの、
続けていくうちに自分の力のなさを思い知らされたり、
予想外の問題が起こったり、
深入りすると、嫌な部分が見えてきてしまったりする。

でも、そこに悩むのではなく、
始めた頃の、ワクワクするような心(魂)の輝きを忘れてはいけない。

つまり、
初心忘れるべからず、
ということかー。


ふと、夢のイメージの中に、とても安らかな場所があると気付いた。
あれの正体はなんだろう?
知っているもののような気がする。
正体がわかれば、私はとても安らかな気持ちになれるのに。

考えていて気付いた。
それは、私があることに関わり始めた頃の状態。

問題もあれど、関わり始めたときは楽しさの方が大きかったのに、
いつのまにか悩みの種になってしまっていた。
あの安らぎを再び感じるためには、
あの頃の気持ちを思い出して、それを大切にすればいいんだ。
つまり、原点回帰。


私は以前のブログのコメントで、
「ブライアンについては、音と戯れることでブライアンの魂は輝いていたのだと思います。
周りの環境や、商業路線にのらなければいけないことで混乱してしまっていたのだと思いますが。」
と書いた。

ブライアンの魂は音楽によって輝いて、
でも続けていくうちに問題も起こってきて、
体力もなかったため、
続けることが苦しみを生むことになってしまった。
だけど音楽は辞められなかった。
ブライアンは音楽そのものだったから。
音楽を切り離すことなんてできなかったから。
だからブライアンはコッチフォードで、始めた頃の健康な自分を取り戻そうとしていたんだ。
音楽を続けていくために。


ブライアンの心情に近付けたと思うと同時に、
自分にとっても、すごく大切なアドバイスを受けた気持ちになった。

このアドバイスを忘れず、この考え方を今後に活かすようにしたい。
初心、忘れるべからず。
魂の輝きを忘れるな。

スッキリした私はエナジーチャージのため、
初めての東京スカイツリーに行ったのでした^^


20150129_173120
東京タワーが見える^^*


20150129_174003
隅田川


| | Comments (0) | TrackBack (0)
|

「希望を手放す」

先日のブログで書きました。
「大きな野望でも持たないとダメって言われている気がして疲れてしまう」

人それぞれなので、大きな夢や野望を持っている人を否定するつもりはありませんが、
私がこのように思ってしまう心理には、次のような想いがあるからです。

気付いている方も多いかもしれませんが、
「頑張れば必ずしも全てのことが上手くいくとは限らない」

努力が足りないという見方もあるでしょう。
でも、それだけではないとも思うのです。

自分が為すべきことではない、
的外れなところで力入れてみても、
それは空回りするばかりになってしまうのではないかって。

もちろん空回りしても、頑張ったということには大きな学びがあると思いますが。
(実はこれ、私自身が空回りを繰り返してきたからこそ言えることなのです)

では、それが的外れか的外れじゃないかをどのように判断したらいいのでしょう?

その答えが、ここ↓にありました。
ムビラプレイヤーの実近修平さんから教えて頂いたガンガジという人。

希望を手放す

希望を手放したときに、自分が生きている意味に気付けるというもの。



******以下、私なりの解釈、意見など。*******

”希望”は子供にとっては未来に関わる必要不可欠なもの、
しかし成熟した者にとっては悪魔のようなもの、
何故なら”希望”は執着へと引きずり込み、
『今ここ』(今ここに在る現実という意味?)から剥離させるから。

時には、現状に留まることは怖いことであったりもする。

現状を変えていきたい(またはこのままでいたい)と思うこと=”希望”を持つということ、
その”希望”を手放すこと=絶望、
の場合があるので。


”希望”は多くの場合、誰か(何か)との関係性の中に起こるもの。
例えば、あなたと私、または世間と私、宇宙と私、といったような。

○○さんと恋人になりたい!
有名人になりたい!
現状をキープしたい!

という”希望”を持つことは、自分自身及び周囲に自分の理想を押し付けること。

そして、思い通りにならないといって絶望する。

ガンガジは、このような”希望”も”絶望”も全て手放すことを説いています。
どちらも実際に存在しているものではなく、
(愚かな)自分が作り上げた(自分自身が充足するための)物語の中にあるだけのものなのだから、と。

これら(自分が愚か者であること)に気付けるのは、成熟さが輝くほんの一瞬のこと。
成熟した者であるなら、気付けるはず。

「何一つ、自分の思い通りになんてできない」
と気付くことが成熟であり、
ここに、真の解放があります。

真の解放の次に、”責任”が現れますが、
それは今まで私たちが考えてきたような”責任”ではなく、
違うところから感じ取れるもの。

希望も絶望も価値観も全てを手放したとき、
自由で愛そのものの静寂が訪れます。

そこで、何か心に触れたものがあれば、それが自分の存在の意味です。

それが良い、悪い、と解釈するのはやめましょう。
なぜなら、その解釈は思い込んでいる価値観から起こるものだから。
「こうあるべき」「こうであってはいけない」などの。

***************************************




最近、周りの流れが予測不能に勝手に動いているので、
この流れにのっていってみよう、
と私が思っているのは、あながち間違っていないのかもしれません。


思い通りにならないと苦しんでいる方は、一度自分の心に聞いてみてはいかがでしょうか?
「その望みは、自分自身を充足させるものではないかどうか、現実から剥離していないかどうか」






というところで、
最近、泣けた曲。
「日々」吉田山田

| | Comments (4) | TrackBack (0)
|

原点回帰

以前も書きましたが、
さだまさしさんの名曲、来年には映画化もされるという「風に立つライオン」の中の歌詞、

♪やはり 僕たちの国は残念だけれど
何か大切な処で道を間違えたようですね♪

というのが、ずっとひっかかっていました。

戦後の日本は、
必死にがんばってきて、
欲しかった「平和」「自由」「豊かさ」「男女平等」を手に入れました。

なのに、現代の日本は空虚さを抱え、何かがおかしく、
このままでは自滅してしまいそうな危機感すらあります。

どうして?

日本人たちは何を間違えてしまったのだろう?
間違ってしまったのなら、現代を生きる私たちが道を正していかなければならないけれど、どうしたらいいのだろう?

どうしたらいいのかわからなくなってしまった時には、何をしたらいいのか、
と考えていて、気づきました。

「そうか! 原点回帰だ!」

では日本の原点ってなに?

更に考えていてハッとしました。

「”神の国、日本”っていうよね。日本は神の国なんだ!」


※ と、ここでお断りしておきますが、宗教を否定するつもりはありませんが、私自身は無宗教だし、変な宗教にハマってもいません。


さて、神の国、というのはどういうことでしょうか?

詳しくは、今はわかりやすく書かれた古事記なども出ているので、それをサラリとでも目を通してみるといいのかなと思いますが、
浅識ながら、すごーく簡単に説明いたしますと、

天と地の間に、イザナギとイザナミという神が現れ、
3人の神様(アマテラスオオミカミ、スサノオ、ツクヨミ)が生まれ、
皇室につながっている、というもの。

神様を信仰することを、「神道(しんとう)」といいます。
「仏教」、「キリスト教」などのように「教」ではなく「道」といいます。

ちなみに仏教は、神道の後から日本に入ってきたもの。

では、「神道」の考え方ってどういうの?
と思って、本を読んでみました。

「日本人のための神道入門」武光誠・グレイル共著、宝島社新書

神道というのは、日本人にとって、宗教とは思えないくらい、あまりにも身近なものであるそうです。
三大宗教と言われる仏教、キリスト教、イスラム教のように経典も厳しい戒律もない。

神道は一神教ではなく、八百万(やおよろず)というように、たくさんの神様が存在するという考え方です。


そして、私がピン、ときたのが、この記述。

※引用※
古代人は「自分が働くから稲が育つのだ」とは考えず、「神様が穀物を育ててくださっている」と感じていました。


人それぞれの捉え方があるでしょうが、
私は、これは忘れてはいけない感覚かなと思いました。

自分ががんばったから、うまくいったんだよ!
ではなくて、
がんばれたのは、自分の力だけではない、
と謙虚な気持ちを持つこと、

バレなければ、何やったっていいよね、
ではなくて、
神様はお見通し、悪いことしたら罰があたるよ、
って思うこと。


冒頭に書いた、「風に立つライオン」の歌詞、

♪やはり 僕たちの国は残念だけれど
何か大切な処で道を間違えたようですね♪

が投げかけているように感じた、どこでどう道を間違えたのか、
の答えも、この本の中に書かれているように思いました。

明治維新の頃、日本は見違えるほど豊かになった。しかしその一方で、
※引用※
怒涛のように入ってきた西洋の合理的な考えや便利な機械によって、日本に受け継がれていたよい伝統までもが、「無駄の多い作業」「非科学的」として切り捨てられてしまったのです。

ここでひとつ、
この本の著者は、西洋的な考え方を否定はしていません。
そして私も、西洋の文化が悪いとは思いません。

でも、本にも書かれていて、私も共感するのは、
他の文化を取り入れるのはいいけれど、
日本に受け継がれていたよい伝統を忘れてしまうことはよくない、ということ、


では、
どうしたら、忘れてはいけなかった精神を取り戻すことができるのでしょう?

それは難しいことではないと、書かれています。

古来、日本人が暮らしていく中で身につけた「自然を大切にして」「人を敬う」ということを、
あらためて意識していくことでいいそうです。

意識することで、行動が少しずつ変わってくるのかもしれません、ということです。


うーん、なるほど。
ほんの少しの間違いが少しずつ大きくなって、現代人を苦しめる事態になっているのなら、
今、できることは、
ほんの少し、意識を変えること、それが忘れてしまっていた大切なものを取り戻す力になっていくのかもしれません。


最後に、
私は神道という宗教をおススメしているわけではありません。
神道が持つ精神は日本人のルーツだと思ったので、それを少しでも知り、心がけることが必要なのではないかなと思ったのです。

| | Comments (0) | TrackBack (0)
|

共存

先日、2年ぶりにアフリカンダンスのワークショップに参加しました^^
下手なのですが、
汗だくになってリズムに乗って無になって身体を動かして、
すっごく楽しかったです。
終わった後はテンションが上がって、
「楽しむって、こんなにシンプルなことだったんだ!」
って思いました。

現代人は、
「楽しいことないかな~」
とか、
「何やっても楽しくない」
とか思いがちですが、
楽しむってことは、実はこんなにシンプルなことなのですね。


さて、今回のテーマ、「共存」。

ちょっと前にネット上で割と話題になっていた、
”弱肉強食”について。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1463546664

※引用※
よくある勘違いなんですが、自然界は「弱肉強食」ではありません
弱いからといって喰われるとは限らないし、強いからといって食えるとも限りません
虎は兎より掛け値なしに強いですが、兎は世界中で繁栄し、虎は絶滅の危機に瀕しています
***
自然界の掟は、個体レベルでは「全肉全食」で、種レベルでは「適者生存」です


ふーむ。
「適者生存」は種レベル、と書かれていますが、
個体レベルでも「適者生存」というか、
その場でうまくやっていけない存在は結局その場を去ることになる、っていうのはあるかな、と思いました。
書かれている「適者生存」とは意味が違ってきてしまうかもしれませんが、
言葉通りの、適したものが残る、という解釈で考えて、ということですが。

他の人と同じである必要も、媚を売る必要もないけれど、
その場に”適さない”人は、
だんだん居づらい状態になり、
結果的に、その場を去ることになるのではないかと。

その場でうまくやっていきたい、
他者といい関係を築きたいのならば、
他者を批判するでも利用するでもなく、叩くのでもなく、自分を卑下するのでもなく、
お互いのいい部分を認め合い、必要以上に踏み込まない、
要するに「共存」していけるよう心がけていくしかないのではないかと思います。

そのためには、まず、それぞれがきちんと自立していることが大切なのですが。

さて、
個レベルの話から、いきなり国同士レベルの話になってしまいますが、
「共存」という言葉つながりで、
「ユダヤ人とパレスチナ人」(松本仁一著、朝日新聞社)という本に書かれていた言葉を紹介します。

※引用※
中東和平は終わっていません。これからひと山もふた山もあるでしょう。結果がどうなるのか、予測はつきません。しかし、イスラエル賞を受賞したアラブ人作家、エミール・ハビビの言葉を、私は信じます。
「双方には共存しか道はないし、いい隣人関係をつくる以外に共存の方法はない。それは好む好まぬの問題ではなく、必然なのだ」


同書の中には、また次のようなエピソードが書かれています。

パレスチナのために働いていたユダヤ人弁護士が、ユダヤ人であるという理由だけで、パレスチナ人に殺された。
一緒に事務所にいたパレスチナ人の女性職員が、
「この人は私たちの味方よ! 私たちのために働いているのよ!」
と叫ぶ前で、何度も何度も刺されて殺されてしまった。

さらに、
あるアラブ系イスラエル人のタクシー運転手が、襲われて瀕死の状態だったユダヤ人兵士を助けた。
事件後、いくつかの脅迫電話があった。
「お前はユダヤを助けた。敵を助けたのだ。殺してやる」

敵同士であると言われた2人のアラブ人とユダヤ人は、その後いい関係を築いている。
そのユダヤ人、ダビッドは、
「アラブもユダヤも関係ない。同じ人間だ。その人間がどういう人間か、それがいちばん大切なことだ」
と言う。
ダビッドは、コーランの額縁を指さして言った。
「あれはおれには読めないが、おれを助けてくれたタウフィク(アラブ人)が大切にしているものだ。だからおれも大切にする。タウフィクは(イスラム教徒なので)断食をする。それはユダヤ教にはない慣習だが、タウフィクたちがそうしているのだから、おれは別におかしいとは思わない。宗教が違おうが言葉が違おうが、子どもたちは優しくしてくれる大人を好きになる。それでいいんじゃないのか」


悲惨な戦いが続いている国ですが、
個人レベルでは、戦いを望んでいない人も多いのではないか、と思います。

では、どうしたら争わずにいられるようになるのでしょうか。

再び、松本仁一さんの著書に書かれていた言葉を思い出しました。

「空はアフリカ色」松本仁一著、朝日新聞社
国際感覚を持つというのは、文化の違いを認めた上で、相手の中に共感できる何かを見つけ出す努力をすることではないかと思う。「共感力」といいかえることもできるだろう。劣等感と優越感ばかりでは、いつまでたっても共感力を身につけることはできまい。


育った環境も、国も、宗教も違う者同士、
わかりあえない部分だけを見つめていたって、うまくいくわけがありません。
大切なのは、互いに、自分にも理解できる部分を相手の中に見出すこと。


争わないで、
他者を蹴落として、自分が優位に立とうとしないで、共存していこうよ、
なんて、キレイゴトに聞こえるかもしれません。

確かに気持ちが悪いキレイゴトかもしれません。

でも、
例え合わない同士でも、相手の中に共感できる部分を見つけ出し、
その部分で付き合っていく、
離れすぎず、近付きすぎず、いい距離感を保つようにする――、

その場から去ればいいだけの問題ならば、去ればいいのでしょうが、
そこを去ることができない、どうしてもいい関係を築いていかなければならない必要があるならば、
キレイゴトだろうがなんだろうが、
こたえはただひとつ、

「共存」しかないのだと思います。

それは個人レベル、国レベルにとどまらず、
地球レベルで考えると、
地球上に住む動物、存在する自然、全てのものたちと、
私たち人間は、「共存」していくしかないのだと思います。


| | Comments (0) | TrackBack (0)
|

人との距離の取り方

人間って順調な時ばかりではないし、
うまくいかなくて、ネガティブになってしまうこともあるし、
そういう時、一人では抱えきれなくて、
誰かに話を聞いてほしいって思ってしまうこと、あると思う。

打ち明ける相手は誰でもいいわけではなくて、
信頼できる人。
この人なら、自分のマイナスな部分も受け止めてくれるのではないか、
と思える人。

でも現代人は忙しすぎて、
表面的な明るい部分だけを共有し、笑い合っているだけで精いっぱい、
悩みなんて打ち明けられたって重くて迷惑、
って思われてしまう。

でも、そんな関係しか持てないのではさびしいよね、
って話を以前、知り合いとした。

ただ、やっぱりネガティブなことを受け止めるのにはエネルギーがいるし、
喜ばれる話題ではないと思うけれど、
そういう感情も話し合える人がいるっていうのは大切だと思う、
という話を更にした。


私がネガティブな感情を受け止める側になったことはあったかな、
と考えて、あることを思い出した。

その頃、よく会っていた友達、仮にAちゃんとします。

Aちゃんは感情の起伏が激しい人だった。

理解できないところもあったけれど、
「いいところもあるしね」
と思って付き合っていた。

Aちゃんは、相手の状況を考えることが出来ない人だった。

例えば、仕事から帰って、さあ、夕飯にしよう、
っていう時に電話がかかってくる。
こちらの都合も聞かず、
「聞いてよ聞いてよ」
から始まり、ノンストップで話し始める。

話の切れ目に、
「ごめん、私、今帰ってきたばかりでこれから夕飯なの。また後でかけなおすよ」
というと、不機嫌になる。

休日、外で他の人と会っている時にも同じ調子で電話がかかってくる。
話の切れ目に、
「ごめん、今、外にいて人と会ってるから。帰ったらかけなおすよ」
というと不機嫌そうに電話が切れ、
またすぐにかかってくる。
「私の話と、自分の用事とどっちが大切なの!?」
と感情をぶつけてくる。

内心うんざりして、
おまえの自分勝手な話を聞くのなんて大切じゃねーよ
と思ってしまう。

ある時は、夜も眠れないほど悩んでいて、会って話を聞いてほしいという。
私は疲れていて早く帰りたかったけれど、
そんなに辛いのなら、と会社帰りに待ち合わせをした。

ところが待ち合わせ時間にAちゃんは現れない。
もう帰ろうかな、
と思った頃に現れて、
「ごめん、一旦うちに帰って、寝ちゃった」

はあ? 眠れないって言ってなかった??

それでもその後、喫茶店でAちゃんの話を聞き、
大分落ち着いたようで、よかったと思いながら、夜も遅くなったので、
じゃあね、
と笑って別れて電車に乗ったら、彼女からの電話の嵐。

「もしもし!? もしもし!?」
留守電に切り替わると彼女の悲鳴のような声。
「なんで出ないの!? どうして出ないのよーーーーー!!」
……もう、こっちの頭がおかしくなりそうだった。

Aちゃんの言い分はこうだった。
「友達でしょ!? 友達なら話を聞いてくれて当たり前でしょ!?」

そんな自分勝手なの、友達じゃないよ、って思った。
友達であっても、
「ごめんね、話聞いてくれてありがとう」
って気持ちが大切なんだって思った。話を聞くのは、友達だから当たり前ではない。

それでも私は彼女を受け入れていた。

人間って、いい時ばかりじゃない、ネガティブになってしまうことってあるよね、誰かに受け止めて欲しい時ってあるよね、お互い様だよね、
って思っていたから。

でもその後、彼女との会話の中の一言で、私はもう許せないと思ってしまった。
もうこの人との友達関係はおしまいだって。

その時も、彼女は電話で自分の近況を語っていた。
嬉しいことがあったということで、そこまで詳細に話してくれなくても、っていうほど、彼女は浮かれて話し続けていた。

そして、せせら笑うように言ったのだ。
「私ばっかりうまくいっちゃって、こんな話聞きたくないのかもしれないけどね~」

はあ!?
って思った。

確かに私はその頃、あまり状況が良くなかったのかもしれない。
だけど、人のうまくいっている話を妬むような状況でも心境でもなかった。
なのに、彼女の、この人を見下したような言い方は?

反対に私が穏やかに過ごしている時、彼女のネガティブな話を聞かされることもあった。
私は自分の穏やかな日々を彼女に話さなかった。
何故なら、それは彼女を余計追いつめてしまうかもしれないと思ったから。

そういう私の気持ちを全く理解してくれてもいない、この彼女の言葉は一体なに?

そのまま友達付き合いを一切絶つこともできたけれど、
彼女が上機嫌なその頃ならば言えると思って、私は自分の気持ちを話した。
なにを話したのか覚えていない。
決して話して楽しい気持ちにもならなかったのは覚えている。

彼女は電話の向こうで、やっぱりせせら笑うように言った。
「言いたいことはそれだけ?」
「うん、そうだね」

それで私と彼女の友達付き合いは終わった。

私が最終的に切れたこの一言がなかったら、
もしくは、
「ごめんね、話を聞いてくれてありがとう」
って言葉があったなら、
まだ友達付き合いは続いていたかもしれない。


この記事のカテゴリをブライアンにしたのは、
ブライアンも快楽主義者でありながらネガティブな部分があり、
周りの信頼できると思える人たちに自分の感情を話していたのではないか、と思ったからだ。

親しいとはいっても、
「重たい話は聞きたくないよ」
って突っぱねられる場合もあったでしょう。

受け止めようとは思っても、重すぎて、受け止めきれないよ!
って思われてしまうこともあったでしょう。

でもブライアンは、
友達なんだから、話を聞いてくれて当たり前、
だとか、
感謝の気持ちもない、
なんてことはなかったと思う。

ちゃんと感謝して、
自分が迷惑をかけてしまっているのであろう人たちに申し訳ない、って思っていたと思う。

ブライアンもまた、私のように、
迷惑をかけてしまっているのはわかっていて罪悪感もあるし、感謝もある、
だけど自分の気持ちを自分一人では抱えきれないんだよ、
って思ってしまうことがあったのではないかと。

だけど、それでも、
人は誰かのネガティブな感情を受け止めるのは辛いしきついし、
なるべく受け止める役にはなりたくない、
と思ってしまうものなのでしょう。

ブライアンと私のような性格のタイプには、
ネガティブなのは重たいよ!
と拒否されてしまう希薄な関係、人との距離の取り方はさびしいなと思ってしまうけれど、
それが現実なんだよ、
っていうことを悟らなくてはいけないんだなって思う。

ブライアンと私を同じような性格のタイプとひとくくりにしてしまうのもどうでしょう、
って自分でも思いつつ^^;


さて、
こんな話題の後には、
気持ちを安らげましょう。

先日、公園の緑の中で奏でてきた音をお聴きくださいませ♪

| | Comments (4) | TrackBack (0)
|

「君が笑ってくれるなら 僕は悪にでもなる」

久しぶりの更新です。

今更なのですが、中島みゆきの「空と君のあいだに」の歌詞が深い!と思いました。

歌詞を見ると、恋愛の歌のようなのですが、
恋愛ということは置いておいても、

「君が笑ってくれるなら 僕は悪にでもなる」

ここ、特に深いです。

単純に受け取ると、
愛する人のために犯罪者になっちゃうの?
と思えてしまいますが、
そういう解釈ではなくて、恋愛ではなくても、
自分を取り巻く人間関係の中で、
いつも穏やかな相手が、常に穏やかとは限らない、
時には荒んだ気持ちになってしまうこともあるでしょう。

そんな時、今までのいい人間関係から一転して、
まるでこちらが悪人になったかのような、八つ当たりのような言葉をぶつけられてしまう。

とても心傷つく事態だと思いますが、
この歌詞を見て、思ったのです。

気持ちが荒んで、きつい言葉をぶつけてくる、
自分が悪人になったような気持ちにさせられてしまう、

でも、その相手が信頼している大切な人ならば、
そういう時は、敢えて自分は悪人になってしまうことも受け止めなくちゃいけないのかな、
と。

人間、みんな弱いです。
いつも順調とは限らない、
そんな時に誰かに気持ちをぶつけたくなる、
普通に、「今、悩んでいるんだよね」と言ってくれれば対処もしやすいですが、
素直に言えない人もいます。

だから
ぶつける気持ちを受け止める存在は必要なのだと思います。

そう思えば、
相手が大切な存在ならば、
一時的に、自分が悪人になることも受け入れられるかも、と思いました。
正に、
「君が笑ってくれるなら 僕は悪にでもなる」

本来の穏やかなあなたを取り戻してね、
という気持ちで。

もちろん受け止める器からこぼれてしまうほどは頑張れなくて、
限界はあると思いますが。

では聴いてみましょう。
絢香のカバーです。

| | Comments (4) | TrackBack (0)
|

ヒロシマ

3月初め、広島に赴き、
1945年8月6日に投下された被爆者の方へのインタビューをしてまいりました。

インタビューブログにpart1~part5として掲載しています。

http://oshigoto999.blog74.fc2.com/blog-category-40.html


インタビュー前、広島空港から平和記念公園に直行し、
こんな音を奏でてきました。

| | Comments (0) | TrackBack (0)
|

より以前の記事一覧