映画

April 05, 2015

映画「風に立つライオン」

初めはさだまさしさんの曲を聴き感動し、
原作を読んで泣いた私が、
映画化された「風に立つライオン」を観て、また泣いてきました。

この作品は実在の人物をモデルにしています。
1960年代後半、ケニアのナクールにある長崎大学熱帯医学研究所に出向した柴田紘一郎医師。

曲も原作も感動した私は、今までもこの作品について書いてきました。

再再「風に立つライオン」
再び「風に立つライオン」
「風に立つライオン」

が、映画を観て、あらためて感じたことを書きたいと思います。
内容については、散々今までも書いてきたので、今回感じたことだけを書きます。


まず思ったことは、
私は曲を聴き原作を読んだから理解できるけれど、
いきなり映画だけを観た人が理解できるのかなあ?ということ。

時代も前後しているし、登場人物も入り組んでいるし。
現代人って、すごくわかりやすくしないと理解できないのでは?などと、思っていたもので。
自分も現代人ながら失礼な発言になってしまいましたが。


例えば映画でも出てきますが、
主人公の航一郎(大沢たかお)が、ガンバレーと叫ぶ理由について、
原作では、

※引用※
「ガンバレ」は激励のエールだと和歌子は私に説明したが、後に航一郎が、それは「人に向かって贈るエールではない」と説明した。なぜならば人は誰でもがんばって生きているのだから、その人に「もっとガンバレ」などと他人が言うべきではない、と言った。
それでは誰に贈るのかと聞いたら、航一郎は「自分自身にだ」と答えた。
自分が情けないとき、心が折れそうなときに、自分を励ます言葉なのだそうだ。

と丁寧に説明されています。

ここは原作を読んで感動したところなので、このくらいの丁寧な説明が欲しかったなあと思ってしまいました。


家族を殺され、恐怖心を無くすため麻薬を打たれ、銃を持たされ、人殺しをさせられる子供兵たち。
子供兵という事実は知っていましたが、あらためて、
「大人は子供を守らなくちゃいけないのに、なんで!」
と憤りを覚え、涙が止まりませんでした。

私たちがすべきことは、力がない子供たちにつらい想いをさせることじゃない、
伝えるべき大切なことを伝え、命をつないでいくことなんだ。


航一郎が選んだのは、アフリカで命を救い、つないでいくことでした。

私たちはそれぞれ、自分の役目を持っているのだと思います。
次世代に命をつないでいくために。


曲を聴いてからずっと抱いていた疑問、
歌詞に出てくる

♪やはり 僕たちの国は残念だけれど
何か大切な処で道を間違えたようですね♪

私たち日本人は何を間違えてしまったのだろうか。
間違えたのなら、今を生きる私たちはその道を正していかなければならないけれど、
どう正していけばいいのだろうか。

その疑問の私なりの答えについては、以前、
原点回帰
で書いています。

「日本人のための神道入門」武光誠・グレイル共著、宝島社新書より
※引用※
怒涛のように入ってきた西洋の合理的な考えや便利な機械によって、日本に受け継がれていたよい伝統までもが、「無駄の多い作業」「非科学的」として切り捨てられてしまったのです。

道を正していく方法があるとすれば、
忘れていた精神を思い出せばいい、

それは難しいことではなく、

古来、日本人が暮らしていく中で身につけた「自然を大切にして」「人を敬う」ということを、
あらためて意識していくことでいいそうです。


映画には出てきませんでしたが、原作に出てきたこと、
※引用※
でも、もしもあなたの心が報われなくとも決して絶望しないこと。”愛”は、決して諦めることなく投げ続けること。自分の都合で人に求めないこと。
ンドゥング。
航一郎が好きだった言葉を贈ります。
『飽くことなく与え続けてください。しかし残り物を与えないでください。自分が傷つくほどに与えつくしてください』
マザー・テレサの言葉です。


私は映画を観ながら、
このマザー・テレサの言葉を思い出していました。

自分が傷つくほどに与えつくす……

私事になりますが、
私は最近、自分の考えについて、
「もしかして偽善者なのではないか」
と感じたり、
「何故、こんなに傷つかなくてはいけないのか」
などと感じてしまっていました。

でも映画を観ながらマザー・テレサの言葉を思い出し、
「傷ついたっていいや」
と思い、
「偽善だろうと、自分の中に沸いてくる良い感情は大切にしよう」
と思いました。
こんな私にでも出来ること、他者になにかプレゼント出来るものを持っているのかもしれない……。

そして自分を取り巻く人間関係について、
合理的でクールな現代人は、見て見ぬふりをする傾向があるけれど、
おせっかいになるかもしれなくても、
見て見ぬふりはやめよう、
と思いました。

本当に”余計なおせっかい”なのだと、納得できるまで、
おせっかいかもしれないことでもやるようにしよう、と。

私自身が、おせっかいではなく”気にかけてもらえること”で救われたことがあったので、
尚更、強く思いました。

泣きっぱなしだったけれど、
今の私には教えられることが多い映画でした。



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January 24, 2014

「永遠の0」

映画「永遠の0」を観た。
(監督:山崎貴、キャスト:岡田准一、三浦春馬、井上真央、他)

観ながら、涙が止まらなかった。
映画館のあちらこちらからも、すすり泣きが聞こえた。

映画について書こうかと思ったけれど、
何を書いたらいいのかわからなかった。

「戦争は2度と繰り返してはいけない」
「感動した」

などという言葉は軽すぎると思った。
戦争のことをほとんど知らなかった子供が観て、そういう感想を持つのはいいけれど、
戦争を知らない世代とはいえ、大人である私が、この映画を観て、そういう感想しか述べられないのは違うと思った。

自分が何を感じ取ったのか、何故、観ながら涙が止まらなかったのか、
自分でもわからなくて、原作も読んだ。

そして思った。

私は「生きること」を想い、その大切さに共鳴したのだと。


時代や環境が変われば、それに順応するように人間は変わる。
でも、人間の根本は変わらないのではないかと思っていた。

それは、現存する世界最古の曲の歌詞を知った時にも思った。
2000年もの年月が経っても、人間の根本は変わらないのではないか。
(以前の記事:現存する世界最古の曲(歌)「セイキロスの墓碑銘」 )

自分が生きてきた中でも感じてきた。
思春期の頃、大人たちに「最近の若者はダメだ。自分たちがお前たちくらいの年の時は、、、」などと言われた。

でも、そんなこと言われてもピンとこなかった。
時代が流れて、当時の大人たちが子供だった頃の環境とは変わっているのだろう。
だけど自分たちだって、何の悩みもなく暮らしているわけではない。
「苦労ナシ」
と言われても、一昔前の苦労とは質が違うかもしれないけれど、
私たちだって大変なのに、、、
と思っていた。


私は今、たまたま、戦争のない日本の現代に生活している。

でも、たまたま戦時中に生まれていたら?


映画の登場人物たちは、
たまたま自分の国が戦争をしている時代に生まれた。

「生きて帰りたい」
現代ならば、そう思うことは当たり前のことだ。
守るべき存在があるのなら尚のこと、
危険な地に行っても、「生きて帰りたい」、そして明日も明後日も1年後も数年後も生きて、
家族を守り、寿命を全うしたい、
そう思うのは決して責められることではないだろう。

しかし、時代が戦争中なら、
「なんてことを言うんだ、臆病者!」
ということになってしまうのだ。

平和な世の「当たり前」は当たり前ではなくなってしまう。

もしも私が、
もしも今の日本人が、戦時中に生まれたら、
やはり周囲の状況に流されたのではないか。

(心の底から望んでいたわけではないにしても)男性は戦地に赴き、
家族は見送り、
戦死してしまうことも受け入れなくてはならず、
生きて帰ってきても「運が良かった!」と手放しで喜べないのかもしれない。


宮部久蔵(岡田准一)を憎んでいたという戦友が、真相を知りたいと訪ねてきた宮部の孫(三浦春馬)に語る。
特攻に行くという宮部少尉を彼は、
”絶対に援護する、
襲いかかる敵機はすべて撃ち落とし、弾が無くなったら自分が体当たりしてでも守り抜く”
と思っていた。
しかし彼の機体は不調になり、自分が守ろうと思った零戦(零式艦上戦闘機。旧日本海軍が、日中戦争から太平洋戦争(大東亜戦争)全期にわたって使用した艦上戦闘機)は遠くに消えて行った。
散々叫んだあとで、嗄れた喉で彼は呟いた。「宮部さん、許してください」

憎んでいた男を守れなかったといって何故「許してください」と思うのか、
戦後何十年も経って、訪ねてきた憎んでいた男の孫に、何故、わざわざこの話をしたのか――

状況も一言で説明できることではなければ、
人の心も一言で説明できることほど単純なものではない。


この戦争についても、
特攻についても、
いろいろな意見が飛び交っている。

一体何が正しくて、何が間違っているのか……、

考えていて気付いた。

事実はひとつ、しかしその解釈は数え切れないほどあるのではないかと。
そして、それぞれが、それぞれを思う人々にとっては真実なのではないかと。

例えば、Aさんという人物について、
ある人は「優しい人だ」と評価し、ある人は「冷たい人だ」と言ったとする。
この場合、どちらかが嘘をついているのか?

――否、どちらも真実なのだと思う。
ある人にとってAさんは「優しい人」であり、ある人にとってAさんは「冷たい人」なのだ。
誰も嘘をついていない。全て、その人が心で感じた真実なのである。
ひとつのことでも、それぞれの立場、状況によって、様々な解釈がされる。


1941年12月8日、開戦。
1945年8月15日、正午、玉音放送が行われる。日本無条件降伏。

私は解釈をせず、この事実だけをここに記す。

記したのは二行だけですが、
何が起こり、
どれだけの想いがここに交錯していたのか、
そしてそれを私たちはどのように受け止めていくのか、
それぞれの心で考えていくことが大切なのだと思う。

現代が、どんな歴史の上に成り立っているのか――
歴史が私たちに何を教えてくれているのか――


原作(百田尚樹著)にこのようなことが書かれている。
※引用※
日本は民主主義の国となり、平和な社会を持った。高度経済成長を迎え、人々は自由と豊かさを謳歌した。しかしその陰で大切なものを失った。戦後の民主主義と繁栄は、日本人から「道徳」を奪った――と思う。
今、街には、自分さえよければいいという人間たちが溢れている。


日本人が忘れてしまったものは、原作に書かれているように「道徳」なのだろうか。
または「道徳」”だけ”なのだろうか。

本当に、日本人は変わってしまったのだろうか。本当に?


歴史を想い、先人が築き上げた現在に生きていることを自覚すると同時に、
私たちには考えなければならないことがある。

私たちは次世代に何を残していけるのだろうか。
何を残していったらいいのだろうか、ということ。

戦後の日本人が、平和で豊かで自由な日本を望み、必死に生きてきたからこそ、今の日本がある。

もしもその過程で何か間違いがあったのなら、
今を生きる私たちはその間違いを正していかなければならない。
そして、次世代が幸せに生きていけるように、努めなければならない。例え、それが大変なことであろうとも。

語り伝えていかなければならないことはなんなのだろうか。
今、すべきことはなんなのだろうか。

過去を知ると同時に、未来をより良いものにしていくために、今を生きなければならないと思う。

そして
自分の命は自分だけのものではない、
継がれている流れの中に存在しているのだと気づかなければならない。

戦後を必死に生きてきた日本人たちから受け取ったバトンを、
私たちは、どのように、どんなバトンを次世代に渡すのか、今、考えて決意して動いていかなくてはならない。


映画のテーマソング「蛍」

涙見せぬように 笑顔でサヨナラを
夢溢る世の中であれと
祈り

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October 13, 2013

「大統領の料理人」

知人から誘われて、久しぶりに映画を観た。

フランス映画。
「大統領の料理人」
実話らしい。

~あらすじ~(公式サイトより)
片田舎で小さなレストランを営むオルタンス・ラボリがスカウトを受け、連れて来られた新しい勤務先はエリゼ宮。そこはなんとフランス大統領官邸のプライベートキッチンだった。
堅苦しいメニューと規律と縛られた食事スタイル、嫉妬うずまく官邸料理人たちの中で、彼女が作り出すのは「美味しい」の本当の意味を追求した料理の数々。
当初、値踏みするような目で遠巻きに眺めていた同僚たちも、いつしか彼女の料理の腕と情熱に刺激され、彼女のペースに巻き込まれ、官邸の厨房には、少しずつ新しい風が吹き始める。
やがて、大統領のお皿に食べ残しがなくなってきたある日、彼女に直接声をかけてきたミッテラン大統領の口から意外な話が飛び出す-。


映画鑑賞後の知人と私の会話。

私「主人公の女性シェフは”我が強い”といえるのだろうか」
知人「”我が強い”っていうのとは違うんじゃない」
私「そっか、職人が自分の仕事に妥協しないのは、”我が強い”っていうのとは違いますよね。自分ではアーティストと言っていたけど」
知人「フランスでは料理人は芸術家だから」


私「あの場を去ることになって、結局、彼女は負けたってことなのかな」
知人「負けとか勝ちの問題じゃないと思う」
私「戦い続けて、”疲れた”って言って、去ることになってしまって」
知人「引き際だと思ったんじゃないかな。あそこでは周りとうまくいかなかったけど、他の場所では歓迎してくれたんだから」
私「ここでは周囲とうまくいかない、と思った時、そこでうまくやることに固執せずに、場を変える方が賢いんでしょうか……」
知人「引き際を潔くするのはカッコいいよね」


映画を通して、いろいろ考えさせられた。

”我が強い”ということについて。

私は自分の意見を持っている人が好きだけど、
自分の考えが絶対に正しくて、他者にもそれを押し付ける人は嫌いだ。
自分が絶対に正しいだなんて、視野が狭すぎだし、
一つの方向からしか物事を見られない故の考え方だと思う。
ましてや、自分を正として、他者の考え方を間違っている、と決めつけ、説教してくるなんてあり得ない、と思ってしまう。

他者に対して批判的で、
自分を客観的に見られない、
そういうのを”我が強い”というのではないだろうか。

(自分とは意見は違うけど)そういう考え方もあるんだな、
とか、
自分にも悪いところがあるのかも……、
などと、客観的、多角的な視点を持てる人は決して”我が強い”とは言えないと思う。

でも、誰に何を言われてもぶれない信念を持つことも大切で、
例えば、この映画の女性シェフが自分の仕事に妥協を許さなかったのは、
”我が強い”のではなく、
(料理人として)そこを失っちゃダメでしょ、
ってところなんだと思う。

精一杯やったから、自分の引き際も受け入れることが出来て、次の道へ進んでいくことができたのでしょう。

我を押し通す、
と、
信念を失わない(ぶれない軸を持つ)
は違うし、

逃げる、
と、
身を引く、
は違うのだと思う。

見極めにくいけれど、
ここを間違えてしまうと、
ただの意地っ張りの負け犬みたいになってしまうのかもしれない。

ま、
人から「負け犬」と言われようと、
自分自身にぶれない軸があれば、揺れることはないのでしょうけれど。

ん? こういう考え方が”我が強い”のかな?
ん~、難しい!bearing


今回、特に”我が強い”について考えてしまったのは、
”我が強い”という言葉は良く使われるけれど、
はたして”我が強い”とはどういうことなんだろう、とちょうど考えていたからです。


ちなみに、映画を一緒に観た知人は、
「私は生まれ変わったら、あんなふうに強く生きたい!」
と言っていました。(笑)

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May 22, 2013

「正しく生きたい、それだけです」

SMAPつよぽん出演、宮藤官九郎脚本、監督の「中学生円山」を観た。

妄想がつながっていく展開、
時々、笑いがこみあげてきたりしながら観ていたけれど、
つよぽん演じる下井辰夫が、

「正しく生きたい、それだけです」

と言った時、いきなり泣けてしまった。


正しく生きたいだけ

簡単に思えることが、
それを成し遂げようとすることが、
とても難しくなってしまうことがある。


正しく生きたい
だけなのに、それが出来なくて苦しい。

例えば、
傷つけあうことなく和やかに暮らしていきたい
だけなのに、それが出来なくて苦しい。

苦しいから、それを成し遂げようと、
結果的に正しくないことをしてしまう。
和やかに暮らせなくなってしまう。

でも実は、
正しく生きたいのなら、
自分が正しく生きればいいだけなのかもしれない。

傷つけあうことなく和やかに暮らしたいのなら、
自分が誰かを傷つけることないように、和やかに暮らしていくことを心がけていけばいいだけなのかもしれない。

人にも正しさを求めるから、苦しくなる。

傷つけられたことに落ち込むから、人にも和やかに過ごすことを求めるから苦しくなる。


だけど、
苦しいから、どうにかしようと考えて、
間違った方向にいかずに、こたえに気づくことが出来るなら、
苦しいと思うことも無駄ではないのかもしれない。

そして、
わかっていても簡単に割り切れないから、
人間って愚かで、愛おしい存在なのかもしれない。

さらに、
自分がどうしてそうしたいと考えるのか、その理由について深く理解することが、
大切なのかもしれない。


などと、
多感な中学生のようなことを、あれこれと考えてしまった。

いえ、
中学生の頃だったら、
「苦しい、どうしたらいいだろう」
までしか考えられなかったかもしれないので、
いいだけ大人になったのに、
思春期の頃からなにも成長していないと思っていたけれど、
少しは成長できているのかも。

だとしたら、よかった^^


「中学生円山」
この映画は、男性の方が女性よりも、より理解できるのかな、と思った。

あ~、このバカらしい妄想、わかる~、男って、こんななんだよねえ、
みたいな。(失礼;)


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November 18, 2012

観ました☆「Crossfire Hurricane」!!

こちらでも記事にした、
ザ・ローリング・ストーンズ結成50周年記念公式ドキュメンタリー「Crossfire Hurricane」
を観てまいりました!!

上映期間も短いということで、早々に映画館に足を運びました!!

これは、
ブライアンファンの方は必見だと思います!!

ブライアン期の映像が多いんです。

観たことなかったような映像やインタビューもあったような。

ミック・テイラー、その後ロン・ウッドが入ってからの映像よりも、
ブライアン期の映像が長かったような。

ブライアンの演奏には、ドキワクします^^*

最初に現在のメンバーが出てきた時、
ブライアンは、
「みんな老けたな~」
なんて笑っているのではないかと思ったのですが、
そうじゃない、
たぶん、
「みんな、老けたでしょ?」
って聞いたとしたら、
「ううん、ずっと見てたから。(急に老けたって気はしない)」
と返ってきそうな気がしました。


以前スコセッシ監督の「SHINE A LIGHT」を観た時に、私はこんな感想を書いています。↓

「↓これはブライアンを意識しながら観ていた私の勝手な想像(妄想)です。

”始める”ことも大変だけど、”続ける”ことはもっと大変で、ブライアンはもしかして、
「俺は”始めた”けど、続けられなかった。バンドだけじゃなくて生き続けることもできなかった。だから現在のストーンズの活躍には、俺は全く関係ない」
なんて言うかもしれません。
でも、もしも誰も認めてないとしても、少なくとも私は認めたい、
「ブライアン、あなたの選んだメンバーはみんな素晴らしい。ブライアンが創ったバンドは、まだまだ元気に転がり続けるよ」
って。」


今回も同じことを思いました。
ブライアンが選んだメンバーはみんな素晴らしいね、って。

そしてもちろんブライアンも素晴らしい。
メンバーはみんな聡明だ、と思いました。人間として。


”ストーンズのメンバーであるイメージを演じている”
というような意味のメンバーのコメントが出てきます。

やっぱりそうなんだって思いました。

ビートルズに対抗して”不良”のイメージで売り出そうとした時、
メンバーは皆、そのイメージを意識したと思います。
ブライアンは誰よりもそのイメージを演じるのがうまかったとも思います。

ブライアンの場合は、演じていたのではなくて「素」だったのではないか、
だって隠し子だっていたし、
などという意見もありますが、
それでも私はブライアンはストーンズのイメージを誰よりもうまく”演じていた”のだと思います。


元気だった頃のブライアン、
そしてブライアンが亡くなった時のことも出てきます。

あらためて思いました。

ブライアンは他のメンバーからいじめられていた、
そしてバンドからも追い出され死んでしまった、、、

そんな単純なことじゃない、
メンバーはお互いにお互いを思い合い、
いじめというよりも、それぞれがやったりやられたりだったのだろうし、
弱っていたブライアンに対してだって、気を遣っていた、
ブライアンだって、決して好んでバンドに迷惑をかけていたわけではない、
これは、
本当に、
メンバー同士、仲間同士にしかわからない心理がそこにはあったのではないかって。

デビュー前、ミックはとにかくブライアンのために動いていた、
という当時のブライアンの恋人リンダ・ローレンスの証言を読んだことがあります。

バンドを形にするため、二人は話し合っていたのでしょう。
ブライアンのアイディアに一番耳を傾けていたのは、ミックだったのではないでしょうか。

外野は勝手なことを、面白おかしく言うけれど、
真実はとても純粋なものだったのではないかって。
そりゃ人間だから愚かな部分もあったかもしれないけれど。


私はブライアンに、
「もっと生きていることを謳歌しなよ」
って言われているような気がすることがあります。

落ち込んだって、
生きていれば落ち込んだ原因を改善していくことが出来るし、
誤解を受けても、
生きていれば、いくらでもその誤解を解こうとしていくことができるじゃないか、
って。

ブライアンは、あの時期にあんな形で亡くなってしまったから、
メンバーともギクシャクしたままになり、いろいろと誤解されたままになってしまった、
他のメンバーは、ブライアンのことでいろいろ言われることもあっただろうし、
だからブライアンはメンバーに対して、本当に申し訳ない、って思っているのではないかなって思います。


ブライアンは亡くなってしまっていても、
今でも、
お互いはお互いを思いやっている、
私にはそんな気がしました。

素敵な仲間だね、素敵なメンバーだね、ブライアン^^
そんな関係を築けるって、とっても奇跡的なこと。


さて、映画の中にも出てきた「NO EXPECTATIONS」を聴きましょう♪

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December 03, 2011

「アントキノイノチ」

映画「アントキノイノチ」を観た。
原作:さだまさし、監督:瀬々敬久、キャスト:岡田将生、榮倉奈々、他。

ストーリー
高校時代に友人を”殺した”ことがきっかけで、心を閉ざしてしまった永島杏平(岡田将生)。
3年後、遺品整理業の現場で働き始めた杏平は、久保田ゆき(榮倉奈々)と出逢う。
命が失われた場所で共に過ごす中で、次第に心を通わせていく2人。


予告の頃から観たいな、と思っていた映画、やっと観られた☆

細かい点はともかくとして、
私がこの映画を観て感じとったのは、『命をつないでいく』ということ。

「なんで生きてるんだろう」
と考えて悩むよりも、とにかく生きていることの意味は、命をつないでいくことなんだなあ、っていうこと。
その人が生きていることで、別の新たな出会いがあり、相手にいい影響を与えていくことができる。

失われた命を嘆くよりも、
自分が生きていることに罪悪感を持つよりも、
何よりも大切なのは、今ある自分の命を輝かせることで、
それが失われた命を尊ぶことにもなるのだと思った。

今ある命を、精いっぱい輝かせて、寿命を全うして人生を生き抜くこと。
生きているって苦しいこともあるけれど、喜びもたくさんあるから、
あるがままを受け入れて、精いっぱい、命尽きるまで生き抜くこと。

失われた命も、嘆かれるよりも、今ある命を輝かせていくことを望んでいる、きっと。絶対。
でも失われた命を忘れないこと。
優しい気持ちで、確かにそこに在った命を想うこと。


それと、
映画を観ていて、モノの価値ってなんなんだろうってあらためて考えてしまった。
どんどん処分されていく遺品たち。
その人が生きている間は捨てがたい存在だったのであろうモノたちが、その人が亡くなったら不用品として処理される。
その様子を見ていたら、生きているうちから、モノをため込んでいても仕方ないなって思ってしまった。
捨てるのがもったいないからといって、別に必要というわけではないのに、なんとなくとっておいたモノが、
当人が亡くなった後は不用品になる。
つまり、そういうモノたちは、持ち主が生きている間も亡くなってからも、あまり価値がないモノだったりするのだ。

なるべく身軽でいるべきだと思った。
例えば大切な人を遺して亡くなったのだとしても、
遺された人に必要なのは、モノではなくて心の中の思い出であったり、モノであったとしても、とてもささやかなモノだったりするのだから。

生と死は真逆のもののようでいて、実は同じ場所にある。
生きていれば、死に出会う、自分もいつか死んでいく。
生きることを語ることは同時に死について語ることになるのだ。
死を否定した生はないし、生を否定した死もない。
どちらかを否定して、どちらかを語るのは嘘っぱちだ。

生と死が同じ場所にあるということを、再認識できる作品でもあった。

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June 27, 2011

「東京公園」

映画「東京公園」を観た。(監督・脚本:青山真治、キャスト:三浦春馬、榮倉奈々、小西真奈美、井川遙、他)

※パンフレットより引用※
東京の公園で、家族写真を撮り続ける大学生の光司(三浦春馬)は、幼い頃に亡くした母の影響でカメラマンを目指していた。ある日、ひとりの男性から「彼女を尾行して、写真を撮って欲しい」と突然の依頼が舞い込む。光司は理由もわからないままに依頼を受けるが、このことをきっかけに自分自身と、そしてそばにいる女性たちと向き合うことになる。
何でも話せて一緒にいることが自然な、幼なじみの富永(榮倉奈々)。いつもやさしく力強く支えてくれる、親の再婚で義理の姉となった美咲(小西真奈美)。そして、記憶の中の誰かに似ているファインダー越しに佇む女性(井川遙)。光司の視線が3人の女性をまっすぐ見つめるとき、彼自身もまた変わり始めていく――。


★★以下、ネタバレ注意。★★










不思議な映画だなと思った。
↑上で引用したあらすじには、「彼自身も変わり始めていく」とありますが、私にはその変化があまり感じられなかったから。

登場人物それぞれ、少しの変化はあった。
けれど、それは「すっきり解決! よかった!」というようなものではなかった。
唯一わかりやすい変化があったのは、歯医者さんかな。

物語を作るルールとして、語られている時間(物語)を通して変化があった、というのがある。
特に主人公は、始めは○○だったけど、語られるエピソードを通して成長した(or堕落した)という変化があるのが物語のルールだと教えられたし、そういうものだと思っていた。

ところがこの映画では、特に主人公の光司に何か変化があったとは感じられなかったのだ。
周りはバタバタしていても、彼は結局彼のままだね、という感じ。

例えば「マザコン」だと指摘されても、ピンとこない顔をしている。
例えば義姉の気持ちを知っても(同時に彼自身の気持ちに気づいても)、それほど動揺しているふうでもない。
例えば幼なじみが転げ込んできても、受け入れる。

物語を通して、彼の強い意志とか決意のようなものなどの大きな変化が見られないのだ。
ふわりふわりとしていて。

だからといって、つまらないというわけではなくて、何故か魅力的な映画だったので不思議だなと思った。

混乱しながらパンフレットを読んでいたら、原作者の小路幸也さんが「小説『東京公園』は担当編集者の<何も起こらない物語が読みたい>というリクエストから始まりました」とコメントしていたので、
「そうか、何も起こらないでいい物語なんだ、それが狙いだったのね」
と納得した。
といっても映画と原作には大きな違いがあるようなのですが。(すみません、原作は未読です;)


筆島で美咲が涙を流す場面では、思わず一緒に涙した。
美咲の声にならない叫び『苦しいよ、つらいよ』が伝わってきたような気がして。
大きな自然と対面した時、人間は普段抑えつけている喜びも哀しみも吐き出せてしまえるのだと思う。
というか、隠せなくなってしまうのだろう。


印象に残ったのは、東京の公園たちの美しさ。
そして台詞にも出てくるのですが主人公の光司が「公園みたいな人」だなっていうこと。

なんとなく穏やかなオーラを持ってそこにいてくれて、
「ここにいればいいじゃん」
って言ってくれる。
そしてそこにいる(そばにいる)だけで心が安らいでいく。

「公園みたいな人」を独占しようとすると、イマイチ確かな手ごたえがなくてイライラしてしまうかもしれないけれど、
いい関係を維持できたなら、きっとその出会いに感謝できるだろうな。

都会に公園が必要なように、
人生にも公園のようでいてくれる人が必要なのかもしれない。

予告編↓

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March 03, 2011

「英国王のスピーチ」

映画「英国王のスピーチ」(監督:トム・フーパー キャスト:コリン・ファース、ジェフリー・ラッシュ他)を観た。

先日のアカデミー賞でも話題になった作品ですが、
「退屈な映画かも」
と、大きな期待はしていなかった。

が、これがとっても、
――よかった。

エンターテイメントな作品ではないし、「ここが泣き所」みたいな演出もないのに、観ながらハラハラドキドキしたり、涙ぐんだりした。


この作品は実在していた英国王、ジョージ6世(1895年12月14日 - 1952年2月6日、在位:1936年12月11日 - 1952年2月6日、現エリザベス女王の父親)を描いた作品。

幼い頃から吃音に悩まされていたアルバート・フレデリック・アーサー・ジョージ・ウィンザー(ジョージ6世)は、兄のエドワード8世が即位後1年も経たないうちに王位を捨てたことで、次男であった故に即位することになる。

国王になれば、スピーチの機会も増えてくる。
あまり身体も丈夫ではないジョージ6世を支える妻・エリザベスと共に言語療法士・ライオネルのもとを訪れ、治療を続ける。
1939年第二次世界大戦勃発、
ジョージ6世は国民に向けたスピーチに臨む――


素敵だな、と思ったのは妻のエリザベス。
スピーチに怯える夫を軽蔑するでも見捨てるでもなく、大きな、チャーミングな愛情で包む。
妻でありながら、母親のようでもあり、親友のようでもある。とにかく、絶対的に夫の味方なのだ。


この映画を理解できる、そして共感できるという人は、たぶん、自分の人生に壁を感じたことがあるのではないだろうか。
理想とする「こうでなければ、こうなりたい」という自分があるのに、
能力不足、あるいはコンプレックスのために理想の自分になれない。
努力しているのにできない、情けなくて涙が出てくる、
そして「なんで自分はこんななんだろう」と挫折感を味わい、それでも逃げずに問題に立ち向かっていく、
そういう気持ちが理解できないと、この映画に共感はできないのではないかと思う。

コンプレックスに伴う怒り(コンプレックスを克服できない自分自身に向けてのもの、またはそんなふうに自分を追いつめた周りの状況に対してのもの)もよく描かれていると思った。

ジョージ6世は優しく真面目であると同時に、苦手な状況から逃げずに立ち向かっていく勇気ある人物だと感じた。
多くの観客は、そんなジョージ6世に共感して、映画のラストのスピーチを聞きながら、祈るような気持ちになっていたのではないだろうか。


しみじみと、観てよかったと思える映画だった。

実際のジョージ6世は1952年、56歳で他界した。
その短い人生に心が痛くなると同時に、
生きていく上で持たなくてはならない勇気、自分勝手ではない優しさを教えられた気がした。

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January 22, 2011

慌ただしい日々

慌ただしい日々を送っています。
あれもこれもと、頭の中がゴチャゴチャしています。

そんな中、行きたいと思っていた「ダ・ヴィンチ展~モナリザ25の秘密~」(日比谷公園ダ・ヴィンチミュージアムにて2011年2月20日まで開催中)に行ってきました。

興味があった展覧会で、確かに興味深いものでしたが、頭がゴチャゴチャしている私は、作品を鑑賞しながら他のことを考えていたりして、むぅ~、こんなことではダメですねwobbly
こういう時にはクリアな状態で、作品の世界に浸からなくては。

でもいいお天気で、日比谷公園の風景はきれいでしたheart01(虹が見えます^^)
Hibiya


そして続いて、これも楽しみにしていた、SMAPつよぽん主演の映画「僕と妻の1778の物語」を公開から数日たってから観にいきました。

行った映画館は指定席制で、多くの映画館のように右、左、中央のブロックに座席が分かれていました。
私は中央ブロックの一番端を希望しました。
中央ブロックの中央の席だと、前の席に座る人によっては(例えば座高が異常に高いとか)スクリーンが見づらくなるという経験があったので、少し斜めからスクリーンを見るような席にしたんです。まあ、今の映画館はどこからでもスクリーンが遮られることないよう、設計されているのだと思いますが、念のため。

ところがですね、その中央ブロックの端の席、一列前よりも座席がひとつ多くなっていたんですね。
こんな感じ。↓

前の列→(席) (席) (席) 通路
私の列→(席) (席) (席) 私の席 通路

わかりますでしょうか?
たぶん中央ブロックは□ではなく△の形で、後方に向かって広がっているのでしょう。
それで、私の席はその広がっていくちょうど境目の列で、つまり端の席は前の列から一席飛び出している状態、そして横は通路なわけです。
飛び出している席ですから、前に席はありません。
通路を歩いてくる人たちと面と向かってしまうような状態になりまして……

居心地悪かったです。despair
まあ、すぐに映画が始まって場内暗くなったので、居心地が悪いと感じたのはほんのしばらくの間でしたが。

実話ということですが、映画はよかったです。
やっぱり役者つよぽんは素晴らしいです。
夢見がちの作家さんが、魅力的なキャラクターとして表現されていました。
また奥様役の竹内結子さんも素敵でした。
とても仲がいいほのぼのとしたファンタジックな夫婦の間に、リアルな厳しい現実が突きつけられる。
笑いながら、その根底には寂しさとか苦しさがあって、でももっとその奥には優しさとナニモノにも奪うことも壊すこともできない大きな大きな愛情がある。

会場のあちらこちらから、すすり泣きの声が聞こえてきました。
わたしも泣きました。

(観た方ならわかると思いますが)タコが出てくるシーンでは、後ろの席の方がツボだったのか、すっごくウケて大笑いしていて、私もつられて笑いました。

何が幸せかなんて他人が決めることではないけれど、
こういう愛情に巡り合えたお二人は幸せだなって、
私は思いました。
きっとどこかでまた巡り合えますね。どこかの、パラレルワールドで。




さて、
話はまた変わりますが、先日もご紹介したブライアソさんのシタール演奏、
許可を頂いたのでyoutubeにもアップしましたmovie

さすがyoutube、ファイル変換しなくても、大きなサイズのままアップロードできました。
ただし、アップロードにかかる時間は一晩かかるほどでしたが。
今回はyoutubeから、撮ってきたそのままの状態(つまりロゴなし)で、ご紹介します。
映像がゆらゆらしていますが、すみませんsweat01
ジャジューカのジャケットなどに囲まれて、いい感じです。

ブライアソさんのライヴは2月26日(土)には大阪、
4月3日(土)東京、また6月にも東京にいらっしゃるそうですnote要チェック!

では、youtubeから2曲続けてどうぞ~。


私もまた最近、「Ruby Tuesday」のリコーダーの音の深さをあらためて知り、ぴ~ぴゃら練習しています。
ブライアンの音、素晴らしい!

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October 29, 2010

パソコンいきなり壊れる&映画館での初体験

寒いですね。

寒がりの私は、暑い夏の方が寒い季節より好きなのですが、
「いくらなんでも今年の夏は暑すぎでしょっ」
と思っていたのが、ついこの前のような気がします。

さて、昨晩いきなりパソコンが壊れるというアクシデントが起こりました。
今まで何台かパソコンは買い換えてきましたが、こんなに急に壊れるなんて初めてです。

かすかに”カリカリカリ……”という、あのハードディスクが壊れる兆候といわれる音がしたかと思っていたら、
次にパソコンを見たときには、勝手に再起動になっていて、
「え、どうしたんだろう」
と思ったのですが、結局、その後、再起動されることはなく……、

かすかだったはずの”カリカリカリ……”という音はだんだん大きくなっていくし、
何度繰り返しても、起動しないし。

今までは、
「調子悪いな、このままだとデータも消えちゃいそう」
と思ったときに買い換えて、必要なデータは移すことができました。
今回は、とにかく起動しないわけですから、中のデータ、全然見られないわけです。

新しくパソコンを買いましたとも。
今まで使っていたメールアドレス、いくつかあるのですが、ひとつだけ、どーしても設定がうまくいきません。

しかしこんなに急に壊れてしまうなんて、なんだか不吉とかいうよりも、「今までのことを切り替えなさい」っていう暗示のような気がしています。
確かに今、私は転換期なのかもしれません。






そしてもうひとつの滅多にないであろう体験をしました。

冷たい雨の中、時間が出来たので、ふらりと映画館に寄ったところ、ちょうど、
「君に届け」
の上映時間30分前くらいだったので、観ることにしました。
少女マンガ的な世界が好きなので、きっとこの映画を楽しめるだろうと思ったのです。

ところが。
館内に入って、びっくり。
こんなの初体験です。
今まで、映画館で映画を何本も観てきましたが。

どんな初体験をしたかといいますと――

大きい声で言うことでもないので、小さく言いますが、

観客が、
私、
ひとりだけ
だったのです。

大きなスクリーン、独り占めです。
「結構、話題になってなかったっけ? ここまで不景気?」
とも思いましたが、
いつもなら食べないポップコーンなどを、遠慮なく食べながら、映画の世界を満喫してきました。

――観客がひとりだけ、
なんて書くと、そんなにひどい映画なのかと思われてしまうかもしれませんが、私は観てよかったと思ったし、泣いたり笑ったり、純粋な初恋物語に心を洗われました。

監督:熊澤尚人、キャスト:多部未華子、三浦春馬、他。

ストーリー:黒沼爽子(くろぬまさわこ)は純粋で真っ直ぐな女の子だが、見た目が映画「リング」に出てくる”貞子”に似ているために学校では”貞子”と呼ばれ、浮いた存在になっている。
友達もいない爽子に高校の入学式の日に言葉を交わした風早翔太(かぜはやしょうた)が親切に接してくる。
お互いに好意を持つ2人。今までひとりぼっちだった爽子の生活は次第に変わっていく――

恋あり、友情あり、のストーリーだったのですが、原作を読んでいないので、たぶん想像力で補完しなくてはならないところがたくさんあるのだろうなって思いました。

とはいえ、あまりにも一途で純粋で不器用な爽子には心を打たれたし、
いくつもの恋愛が描かれていて、誰かを好きになって、楽しかったり苦しくなったり、それぞれの恋心に感情移入して、私はひとりきりの映画館で、ボロボロボロボロ泣きました。
失恋するってわかっていても、自分の気持ちを告げる、そしてやっぱり断られてしまう……、

私は誰かを好きになったとき、その気持ちは自分の恥とかプライドとか関係なく、伝えるべきだって思っているんですね。
相手に迷惑をかけるのはよくないけれど、例え当たって砕けたとしても、その気持ちを自分のプライドを守るためだけに告げないなんてことはダメだって。
なので告白のシーンでは「がんばれー!」「よく言えた! エライ!」なんて心の中で思ったし、結果、失恋しちゃって、つらくて、頭が痛くなるほど泣いて、落ち込んで、荒れたりする気持ちにも感情移入して、泣きました。
その反対に、恋愛が成就してしあわせそうな姿を見て、「よかったねー」と拍手したくなるほど嬉しくなったり。

今の私はたぶん心が疲れているので、こういう何気なくて、観終わって優しい気持ちになれる映画が必要だったのかなって思いました。

いや、しかし、ひとりきり映画館で映画鑑賞、最初は戸惑いましたが、中々ステキな体験でしたshine

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